2020年5月19日火曜日

アンドロイドは電気羊の夢をみるか


おはようございます。今日は、高3の「晃生」君からの紹介です。晃生君、2回目の寄稿、ありがとう!前回5/14は内田 樹の本、今回は?それでは、みなさん、どうぞ。

『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』フィリップ・K・ディック/著 早川書房Kindle版

〇 僕は最近になってやっと『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』を読みました。自粛期間中なのではじめてkindleで本を買ってみましたが、全然普通の感覚で読めました。というのも僕は電子書籍より紙媒体に圧倒的な信頼を置いていたのです。まあ、あっさりと崩れ落ちました。

「アンドロイドは~」はSF小説で有名なフィリップ・K・ディックの作品です。「ブレードランナー」という映画は知っていますか。その原作となった小説です。少しあらすじを書かせてもらいます。

場面は第三次世界大戦後、放射能に汚染された世界では、生きた動物を持つことがステータスになるとされています。主人公[リック・デッカート]は、いつか本物の生きた動物を買うために賞金稼ぎの仕事をしています。その対象となる相手は、植民地化した火星から人を殺して逃げてきたアンドロイドたちです。この時代のアンドロイドは見た目による見分けが全くつかないような精巧な作りをしているんですが、ひとつだけ人間とアンドロイドを区別できる違いがあり、それだけを頼りにリックを含む賞金稼ぎの仲間たちはアンドロイドを無慈悲に次々と殺害していきます。人間が持って、アンドロイドたちが持つことのできない差。それは生命に対する感情移入能力です。だから、相手の痛みを知らないアンドロイドたちが人間に対して無感情に人を殺すことができるように、人間もまた、アンドロイドたちを何のためらいもなく、まるで物を壊すように殺害することができるのです。しかし、ある時リックの前に感情移入能力を持った疑いのあるアンドロイドが出てきます。リックはその存在によって、アンドロイドのような無慈悲な人間と、人間のようなやさしさを持ったアンドロイドの間で、人間性とはいったい何なのか。と考えはじめるのです。

初版が1968年とかなり古いこの物語が、今なお、読まれ続けていることが何を意味するのか、私たちはもはや考える必要もないほどこの問題を実感しています。作者が何を意味するのかというのは古典的批評の在り方ですが、ぼくはそれが必ずしも正解だとは思いません。ある作品が言語で作られている限り、私たちは意識せずにその言葉に付与されたイデオロギーを語っています。言葉とは個人的なものではありません。公共によって公共を語るためにわざわざ残されてきたものです。「電気羊」なんて言葉は辞書にないだろう造語にもかかわらず、わたしたちがそれをイメージすることができるのは、それが「全くの新しいものではない」からではないでしょうか。というより言葉がものに先行するというソシュールの概念で考えれば、言葉である以上、意味はどんなものにも後付けされるように縛られている。というほうが分かりやすいのかもしれません。だから「アンドロイドは~」というテクストが作られたということは、当時からAI(人工知能)と人間の狭間にゆらぐ問題は存在したのだと思います。

コロナウイルスのせいで、というのはあてつけがましいですがAIの普及と無人化によるグローバリゼーションは急速に早まっています。(なにがどう早まっているかと聞かれれば、ぼくはそれに答えられるほどの知識はないですが)今だからこそ、私たちが深く、私たちとはどんな存在なのかを問わなければいけないと感じました。