2020年10月9日金曜日

最果タヒの詩

おはようございます!本日は、高3の岩井路加君が現代詩人の最果タヒの詩について、原稿を寄せてくれました。タヒさんの作品紹介は5/2の小説に続いて2回目。今度はいよいよ、その詩についてです。路加君、全力投球の寄稿、ありがとう!みなさん、どうぞ、ご一読ください。

『夜空はいつまでも最高密度の青色だ』(最果タヒ著/リトルモア社)

最果タヒは1986年生まれ、2004年よりインターネット上で詩作を開始、後に詩誌『現代詩手帖』に投稿を始め、現代詩手帖賞受賞。初刊行の詩集『グッドモーニング』で中原中也賞受賞。詩人、ともに小説家として活動されています。

詩集の全体を紹介するのが今回は難しいので、僕がこの詩集の中で特に面白いと思ったものを紹介します。それは、『新宿東口』『4月の詩』という二つの詩です。

「フラニーとゾーイ。登場人物と登場人物。どうせ嘘だ、生きても死んでもいない存在だ、そう決めて見つめた現実は踏み潰してもいい紙くず。きみも。あいつも、あのこも、踏み潰してもいい紙くず。」(「新宿東口」より)

「新宿東口」は、喧騒と罵声と人混みに埋もれる“ぼく”が、誰かのドラマのために消費されることを嘆いた詩です。

僕は、大多数の人を前にすると、なるべく多くの人に受けとめてもらえるような、上っ面の態度を取ってしまいます。それは、一人一人にスポットライトを当てるような、その人個人の特徴や人生を理解して話す態度と真逆です。人間をモノと同じように捉えている感覚のように思えます。僕は時々、その感覚をとても残酷だと思って憂鬱になります。「僕にとってあの人たちは、僕の人生の中の登場人物。でも、僕も、彼らの人生の中の登場人物。」と、一方的に思い思われているかもしれないことに気がついてしまうのです。もしかしたら、昨日あんなに大笑いしあった友達も、たくさんの人々を前にするのと同じように、僕に接していたのかもしれないと考えてしまいます。

「花の向こうに星が見える。星は死んだら消えてしまうけど、そのことに誰も気づかないで、光がずっと残ってく。羨ましいときみが言うけど、きみの光が残ったって、私が、死ねって言える時間がないなら、嘘だよって笑えないなら、意味ないんだよ。死なないで。」(「4月の詩」より)

一方、「4月の詩」は、「新宿東口」のようなシチュエーションを取り払った、“私”と“きみ”の関係が描かれています。

僕を含め、現代の人はとかく、自分の存在意義や役割を見出そうとし、葛藤しているように感じます。この詩で登場する “きみ”は、その葛藤の中で、「星のように自分の光を残す」ことを願っています。でも、それは“きみ”が路上で見知らぬ多くの人を殺すような、相手に傷跡を残すような、他者に対してあまりにも一方的すぎる態度ではないでしょうか。

“私”が欲しているのは、“私”と“きみ”という対面的な関係でしか築けない瞬間。「死ね」や、「嘘だよ」という言葉でいいから、“私”と“きみ”のコミュニケーションし、互いに共鳴しあえる時間を“私”は願っているように、僕は思いました。

互いに一方的な態度で向かい合う人間関係で満たされた社会の中で、最果タヒの描く“私”が“きみ”に望むような人間的な関係が、僕には、一際輝いて見えます。僕は、最果タヒの詩を読むことを通して、自分の上っ面をなるべく剥ぐように努力できる気がします。そして、しっかり相手と向き合って話せる気がするのです。

全体的に、最果タヒの詩は、良い意味でも悪い意味でも即物的だと僕は思います。ひたすらに即物的な想像力で成り立っている詩群です。そして、最果タヒは、決してあいまいなイメージを打ち出さず、具体的な詩に徹しています。

その断定的な言葉から生まれる、最果タヒの詩特有のビビッドさに、読者は、時にハッキリした共感を持つ一方、詩を理解しきれない自分に葛藤する時もあると思います。でも、そういった葛藤や、紙上の言葉との対話を通じて、自分では思いもしなかった、“情緒の超新星爆発”が起こるはずです。

最果タヒの詩を読んで、あなたも、たくさんの言葉に裏付けされた“エモさ”を体験してみませんか?

*「エモい」は、英語の「emotional(エモーショナル)」を由来とした、「感情が動かされた状態」、「感情が高まって強く訴えかける心の動き」などを意味する日本のスラング(俗語)、および若者言葉である。感情が揺さぶられたときや、気持ちをストレートに表現できないとき、「哀愁を帯びた様」、「趣がある」「グッとくる」などに用いられる。(wikipediaより引用)